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高橋由伸

高橋 由伸(たかはし よしのぶ、1975年4月3日 - )は、読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手(外野手、内野手)。2015年より一軍打撃コーチ兼任。 シーズン先頭打者本塁打NPB記録保持者(2014年シーズン終了時点)[1]。 妻は元日本テレビアナウンサーの小野寺麻衣。2児(2人姉妹)の父。義妹に小野寺結衣がいる。 プロ入り前[編集] 千葉県千葉市中央区出身。右利きだが、3歳の頃から誰に言われるでもなく自然と左打ちだった。小学校4年生で地元少年野球チームへ入団すると同時に、6年生ばかりのレギュラーに唯一入れられる。入団以前から同じグラウンドで練習していた高橋を見ていた監督が、動きやスイングの速さなどに卓越したセンスを感じたためであった[2]。5年生時には3番・ショートとしてチームの県大会初優勝、6年生時には4番・エースとして2連覇に貢献。 幼少期よりお父さんっ子であり、少年野球チーム在籍時から高校の寮に入るまで、常に父親との二人三脚で自主トレをしていた。その内容の一つとして、身長の倍ほどの竹で素振りをするという日課もあった。プロを目指し挫折してほしくないという父親の配慮により、練習時以外では野球に触れることが殆ど無く、プロを志すことも無ければ憧れの選手もいなかった[2]。野球そのものはあまり好きでもなく、父や兄弟など周囲が喜んでくれるので続けていた面もあったと後に語っている[3]。また現実的で冷めた子供だったといい[4]、プロ野球選手にはなりたいともなれるとも全く思わず、プロ入りを考え始めたのも大学2年生頃になってからであった[2]。当時から人前に出るのが苦手であり、目立つことを嫌っていた[5]。 中学のポニーリーグ時代は4番・エースとしてチームを全国大会2連覇に導く。途中、「野球を辞めたい」と言っては父親と兄の2人に力ずくでグラウンドまでひきずって連れていかれたり[5]、嫌だと騒いでは兄の暴力を受け、よく泣きながら練習に向かっていたという[4]。中学3年時の成績は26試合の出場で打率.559、17本塁打、65打点。ここで野球を辞め、将来を見据えて学業に集中しようと考えたが、「あと3年だけお父さんを楽しませてくれ」という父の要望で甲子園を目指すことに決める[2]。勉強と両立できるという理由、特に憧れであった慶應義塾大学入学への近道として[6]、数あったスカウトの中から神奈川の名門・桐蔭学園高等学校(以下、桐蔭学園)を選択し入学。 桐蔭学園野球部には期待の投手として入部したが、間もなく監督の土屋恵三郎から打撃と強肩を活かす右翼手への転向を薦められる。高橋は渋ったものの、転向すればすぐにレギュラーで3番を打たせるという言葉で決断。1年生時から3番・右翼手のレギュラーの座を掴む。このころから強肩・好守に加えて勝負強さの片鱗を見せていた。第73回全国高等学校野球選手権大会で3回戦に進出するも、鹿児島実とあたり、最後はサヨナラ負けを喫する。当時の同僚には高木大成(2学年上)や副島孔太(1学年上)がいた。 4番打者となり、投手を兼任するようになった2年時の1992年にも第74回全国高等学校野球選手権大会に出場。沖縄尚学とあたり、本塁でのクロスプレーで左太股の肉離れを起こしたが、8回からリリーフ投手として登板。結果、延長12回でまたもサヨナラ負けを喫し、1回戦敗退。最後は足の痛みで歩けなくなり、チームメイトに担がれながらマウンドを下りた。その後、怪我と腰痛治療のために2週間の入院を余儀なくされたが、退院後にはチームメイトからの厚い人望により翌年の主将に任命される。「自分はチームを引っ張っていけるようなタイプではない」と最初は断ったものの、監督命令と聞いて引き受けたという。先輩である副島孔太は「口で引っ張っていくのではなく、日常の自然な練習態度や言動から気がつけば周囲に人が集まっている、という独特の雰囲気を持っていた」としている[7]。 3年時には強打者を1番に据えるという土屋の方針により1番打者を務めるも、甲子園には出られなかった。1,2年時の甲子園通算打率は.400。高校通算30本塁打。ヤクルトなど複数のプロ球団からスカウトされていたが、慶應進学という入学当初からの目標は変わらず、慶應義塾大学(法学部政治学科)へ指定校推薦で進学する。「非凡なセンスを持ちながら根っからの野球好きでない高橋には、自由で伸び伸びとしたチームがいい」と考えた土屋の助言もあった[2]。 慶應義塾大学野球部で1年時からレギュラー。春季リーグ戦の開幕1試合目から5番・三塁手として出場、ルーキー新記録の3本塁打を放つ。3年時の東京六大学野球1996年春季リーグ戦では打率.512、5本塁打を記録して三冠王を獲得。4年時の1997年には主将に就く。相手が勝負を避けるようになり、2試合で7四球など敬遠も目立つ中、春季リーグ戦ではチームを9季ぶりのリーグ優勝に導く貢献。秋季リーグでは法政大学の安藤優也から田淵幸一の持つ東京六大学リーグ本塁打記録を更新して歴代1位となる通算23本塁打を放つ。リーグ通算102試合出場(4年間全試合フルイニング出場)し366打数119安打、62打点、打率.325。通算219塁打は歴代1位。日米大学野球においても日本代表の4番打者として3試合連続本塁打を打つなど活躍。インターコンチネンタルカップでも大学生ながら日本代表の4番打者として出場し、上原浩治が先発した国際大会151連勝中のキューバとの決勝戦で1回裏に先制点かつ決勝点となる3点本塁打を放ち、その後も2点三塁打を打つなど優勝に貢献。同年に大学を卒業。甘いマスクと走攻守を兼ね揃えた六大学のスターとして高い人気を誇っていた。ちなみに、リーグ戦では1度だけリリーフ投手として登板し無失点で切り抜け、球速149km/hを記録したことがある。当時の慶大監督の後藤寿彦は、「試合の勝敗にはすごくこだわるのに、自分の記録や賞についてはギラギラしていない」と語った[2]。大学の後輩である佐藤友亮は、「後輩に怒ることが全く無く、後輩が叱られていたら庇ってくれる仏様のような人」「彼がいなかったら何人も野球部を辞めていた」とプロ入り後に語っている[8]。また、同期である明治大学の川上憲伸とは六大学野球新記録となる本塁打を放つなど大学時代よりライバルであった。 ドラフトに際しては中日ドラゴンズ、日本ハムファイターズ、広島東洋カープを除く9球団の激しい争奪戦が繰り広げられる。高橋の出身地である千葉の千葉ロッテマリーンズファンが「高橋君にロッテへの逆指名入団を」と署名運動を繰り広げ、数万人の署名を集めたりもしたが、高橋本人は志望球団をヤクルトスワローズ、西武ライオンズ、読売ジャイアンツの3球団に絞る。11月4日に巨人を1位で逆指名入団した。 プロ入り後[編集] 1998年 入団当初より監督の長嶋茂雄から「21世紀のスター」として期待され、開幕戦に7番・右翼手で先発出場し、いきなりプロ初安打を放つ。右足を高く上げる独特の一本足打法で打線を牽引し、後半戦からは5番打者に定着。オールスターゲームのファン投票では新人史上最多の51万4351票で選出され、以降7年連続で出場した。最終的に打率.300(リーグ8位)、19本塁打(リーグ9位)、75打点(リーグ10位)、OPS.852(リーグ8位)の好成績を収めてシーズンを終えた。プロ1年目での打率3割(規定打席到達)は史上7人目、セ・リーグでは長嶋茂雄以来40年ぶり。さらに新人での満塁本塁打3本は史上初だった。 新人王候補にも名前が挙がったが、新人王は中日の川上憲伸が受賞。この年の川上との直接対決の成績は 22打数1安打(1本塁打)であった。新人王は獲得できなかったが、新人王に値する成績と認められ、異例とも言えるセントラル・リーグ特別表彰を受賞した。また、守備でも強肩を活かしてリーグ最多タイの12補殺を記録し、新人外野手としては史上初のゴールデングラブ賞を受賞。以降6年連続で受賞となる。同年、監督の長嶋から「ウルフ」のニックネームが与えられた[9]。 1999年 メジャー・リーグのバリー・ボンズを参考にして重心移動に取り組み、長打力もアップ。オープン戦で6本塁打を記録した勢いそのままに開幕戦から3試合連続本塁打(1993年の秋山幸二以来6年ぶり)を放ち、4月には打率.433、8本塁打、29打点を記録し月間MVPを獲得。5月5日にはプロ2年目で巨人第66代の4番打者に指名される。以後チームメイトの松井秀喜、ヤクルトのロベルト・ペタジーニと熾烈な本塁打王争いを展開。しかし、9月14日の中日戦(ナゴヤドーム)での守備の際に外野フェンスに激突し、鎖骨骨折の重傷を負ってチームから離脱。中日と激しい優勝争いをしていたチームにとっても高橋の離脱は大きな痛手となり、本塁打王と共にチームの優勝も逃した。自身は打率.315(リーグ5位)、34本塁打(リーグ6位)、98打点(リーグ4位)を記録。故障により終盤欠場しながら打撃成績のほとんどの数字で前年を上回り[10]、初のベストナインに選出された。オフには年俸6100万円増の1億円でサイン。史上最速の年俸1億円到達となった[11]。 2000年 シーズン前半戦は前年の骨折の影響もありプロ入り後初めてのスランプを経験するが、後半戦には復調。「MKT砲」と称された3番・高橋、4番・松井、5番・清原の強力クリーンアップの一員としてリーグ優勝・日本一に貢献。9月の広島戦で球団通算1000号サヨナラ本塁打を高橋建から放った。プロ入り初の全試合・フルイニング出場を果たすも、3年目で初めて打率3割を下回った。 2001年 前年同様、シーズン序盤にスランプに苦しむ。それでも広島から移籍してきた江藤智とともに3番・6番打者を任され、2年連続で全試合出場。8月1日の中日戦では川上憲伸からプロ通算100号本塁打を放つ。打率も2年ぶりに3割をクリアした。シーズン後には台湾で開催された第34回IBAFワールドカップの日本代表に選出された。 2002年 6月の広島戦では球団通算7500号本塁打を放ち、対戦投手は2000年にも球団通算節目の本塁打を放った高橋建だった。8月3日の広島戦(旧広島市民球場)では新井貴浩が放った打球をフェンス際でジャンピングキャッチを試みた際に左足かかとを強打し戦線離脱(左足底筋腱挫傷)。その復帰第1戦となった9月16日の横浜ベイスターズ戦では同様のフェンス際の打球でジャンピングキャッチを決めた。本塁打・打点は35試合欠場した影響で前年から大幅に成績を下げてしまうが、2年連続で打率3割をキープした。 2003年 この年より選手会長に任命される。また、松井のメジャー・リーグ移籍により中堅手へコンバートされた。清原の欠場もあり、初めて開幕戦を4番で迎えた。途中腰痛で戦線を離脱したものの、シーズン中盤には好調をキープし続け、11打数連続安打、14打席連続出塁のプロ野球タイ記録を樹立し、打率は自己最高の.323を記録した。6月1日の阪神戦では当時無敗を誇っていたジェフ・ウィリアムスからサヨナラ本塁打を打ち、シーズン唯一の黒星を付けた。7月15日のオールスターゲームでは2打数2本塁打3打点の活躍で自身初のオールスターMVPを受賞。また、シーズン後にはアテネ五輪の予選を兼ねた第22回アジア野球選手権大会に出場し、首位打者となった。 2004年 前年に続き中堅手へのコンバートを試みるが、まもなく近鉄から移籍してきたタフィ・ローズに譲る。ロベルト・ペタジーニをヒントに打撃フォームを大きく改造した結果、開幕直後は極端な不調に陥った。開幕からシーズン途中に開催されたアテネ五輪まで継続して4番打者を務める。五輪では日本代表の3番・センターと副主将を任され、代表チーム最多の3本塁打を打つなど活躍。中でも野球台湾代表戦では王建民から貴重な同点2点適時本塁打を放った。しかし、五輪で肘の遊離軟骨状態が悪化。肘に痛みを抱えながらのプレーで守備面では送球に精彩を欠き、ゴールデングラブ賞をプロ入りして初めて逃したが、打撃では5年ぶりに30本塁打を記録、打率も4年連続で3割をクリアした。9月29日の広島戦では長嶋茂雄の849試合目に次ぐ史上8位のペースとなるプロ850試合目での1000本安打を達成。 オフには右肘の手術を受け、球団合併問題では巨人の選手会長、また日本プロ野球選手会の副会長として署名活動などで大きく貢献した。 2005年 シーズン序盤の広島戦での守備中、旧広島市民球場のフェンスに登った際に右肩肩甲下筋の肉離れを起こして離脱。その後、7月8日の広島戦でフェンスに右足首を強打し再び離脱。3年前と合わせて3度も同じ球場、同じフェンス際の打球の処理で怪我に遭ったため、復帰後の広島戦では球場のフェンス際に清めの塩を撒いたという。その後も右足首は回復しないまま骨棘が形成され、痛みを抱えた状態で試合に出続けたが、88試合の出場に留まり、プロ入り以来はじめて規定打席を割る。オフに右足首の手術を受けた。 2006年 1月に元日本テレビアナウンサーの小野寺麻衣と結婚[12]。手術により調整が遅れ、オープン戦には中盤から参加。この年から監督に再就任した原辰徳の「守備の要であるセンターラインを守ることでチームを引っ張っていってほしい」という方針から再び中堅手にコンバート。右足首の状態は開幕に間に合うかどうかというものであったが、開幕から好調なスタートを切った。しかし、4月12日の広島戦にてセンターの守備でダイビングキャッチの際、左脇腹の肉離れを起こし約1ヶ月の離脱。復帰して半月ほどたった5月27日のロッテ戦で再びダイビングキャッチを試みて左肩を負傷。その後守備位置を中堅手に戻されるが、度重なる負傷で本来の打撃や守備を取り戻すことができず、後半戦からは守備の負担を軽減させるため初めて左翼手の守備に就いた。8月18日の中日戦で1000試合出場を達成。前年に手術した右足首の状態が悪いままプレーを続けたこともあり、2年連続で規定打席を割り、打率.260、15本塁打と不本意な成績に終わった。 2007年 心身ともに強い選手という意味で「強」をテーマに掲げ、開幕戦から1番・右翼で起用される。横浜との開幕戦(横浜スタジアム)では第1打席で先発・三浦大輔の初球を右翼スタンドへ本塁打を放ち、セントラル・リーグ史上初、衆樹資宏以来45年ぶりの開幕戦初球先頭打者本塁打を放ち、長嶋茂雄の5年連続に次ぐ歴代2位の3年連続開幕戦本塁打を記録。4月28日、FA権を取得するも、早い段階で宣言せずに残留することを表明。生涯巨人を宣言した。6月以降は右足首痛が悪化するもそのまま出場を続け、6月には打率.408、8本塁打、18打点、OPS1.347を記録し4年ぶりとなる月間MVPを受賞。7月26日の横浜戦ではマット・ホワイトからプロ野球新記録となるシーズン9本目の初回先頭打者本塁打を記録。終盤は腰痛により成績を落としたが、1年を通じて大きなケガや長期離脱もなくプレーし、3年ぶりに規定打席に到達し、リーグ6位の打率.308を記録[13]。8年ぶりのベストナインに選ばれ、4年ぶりのゴールデングラブ賞も獲得。 1番打者として出塁を意識し、自己最高の66四球・出塁率.404を記録する一方で、初球打ちの打率は.441、自己最多の35本塁打も記録した。日程終了時点ではリーグ最多本塁打だったが、その後村田修一が最後の1本となる36本目を佐々岡真司引退試合の9回最後の打席で打ったため、惜しくも本塁打王を逃した。OPS.982、得点圏打率.409は12球団トップであり、その成績から「1番に据えておくのはもったいない」という意見も出るほどで、当時楽天イーグルス監督の野村克也からも「俺ならクリーンナップ」と言われた(なお、この発言の翌日の試合のみ4番として起用されている)。 また、この年で10年連続2桁本塁打も達成、巨人では長嶋茂雄・王貞治・原辰徳・松井秀喜に次ぐ5人目となった。北京五輪の予選を兼ねた第24回アジア野球選手権大会日本代表に選抜されるが、腰痛のため辞退。ちなみにこの年のオールスター出場選手・監督のサイン入り着用済みユニフォームが慈善オークションにかけられた際には、田中将大に次いで2番目に高額の107万3千円で落札されている。 オフの契約更改ではFA権は行使せず、巨人の生え抜き選手としては最高となる4年総額16億円(年俸3億5000万プラス出来高5000万)で新たに契約を結んだ[14]。 2008年 前年に続き「1番右翼」で開幕スタメン。4月3日の中日戦で川上憲伸から7回裏にバースデーアーチとなる3ラン本塁打を放ち、4月6日の阪神戦では史上52人目となる250本塁打を放った。開幕から好調を維持し、4月下旬から4番として起用されるも、5月3日のヤクルト戦で腰痛を再発させ登録抹消。6月15日に1軍復帰するも8月7日に再び戦線離脱。ベンチ入りしても出場しない試合もあり、西武との日本シリーズは欠場[15]。チームがリーグ優勝した一方で、91試合の出場で打率.236と自己ワーストの成績に終わる。また、プロ入りして以来10年間3割以上をキープしていた通算打率が.299となった。オフには腰の精密検査を行い、手術も検討したが引き続きリハビリによる改善を目指すことにした[16]。 この年の北京五輪についても、代表監督の星野仙一は当初「(高橋は)国際試合には欠かせない」と選抜の意向を示していたが、腰痛により辞退した。 2009年 この年から生え抜き野手最年長となったが、腰痛が改善せず春季キャンプでは初の2軍スタート[17]。シーズン終盤の8月28日の阪神戦で復帰し、9回に代打で登場したものの藤川球児に対し見逃し三振に終わる[18]。翌29日に出場選手登録を外れ、腰の手術を受けることを表明。来季の開幕復帰を見据え9月15日に手術を受け[19]、わずか1打席でシーズンを終えた。 この手術は成功しても腰の痛みが完全に取れる保証も無く、リハビリは最悪1年以上かかり、失敗したら一生車椅子生活もあるという選手生命を賭けたものであった。踏み切るに至るまでの経緯として、当初から「秋に手術しても来年の開幕には間に合う」と話していて、ギリギリまでシーズンを棒に振る決断を待った形になった。高橋もこの年を「野球をやっていることを想像したくてもできなかった時期」「もう無理かと思った」と振り返るほど絶望的な状況であった。 2010年 自主トレから慎重に調整を行い、春季キャンプでは一軍に入る[20]。オープン戦では5割近い打率を記録し[21]、開幕戦にキャリア初となる「8番一塁」で出場[22]。この年には同じく初となる2番打者も経験。中盤以降は右翼手や代打での起用が増えた。腰の状態を気にしながらの出場で規定打席には届かなかったが、1年を通して116試合に出場(うち先発が76試合)[23]。CSも含め、本塁打を打った試合ではチームは全勝。出塁率.364、得点圏打率.325、CSでの打率は.375と選球眼や勝負強さは健在であった。 2011年 レギュラー再奪取を目標として掲げ[24]、開幕戦に「5番右翼」でスタメン出場。しかし、4月26日のヤクルト戦の守備で外野フェンスに激突して負傷交代[25]、29日に登録を抹消。検査の結果、左肋骨を骨折していたことが判明した[26]。故障明けの6月11日に再登録。7月10日には史上108人目となる1500本安打を達成。8月7日の広島戦ではチームを救うダイビングキャッチで「ジョージア魂」賞を受賞[27]。8月20日には3年ぶりに4番として先発し[28]、同月26日の阪神戦でも攻守に活躍[29]。10月12日の阪神戦では自身8年ぶりのサヨナラ本塁打を代打で放った[30]。しかし、シーズンを通じては95試合出場で打率.246、15本塁打、37打点という成績に終わり、規定打席にも届かず。一方で、OPSは.829と規定打席到達者の中でリーグトップだった長野久義(.847)と遜色ない成績を残した。 契約更改では当時の球団史上最高のダウン額となる1億8000万円減の推定1億7000万円でサインした。更改後の記者会見では「今年も後がないと思ってやってきたし、来年も同じ気持ちでやっていきたい」との決意を口にした[31]。 2012年 開幕前のインタビューで「体の衰えが技術で補えなくなっている」と発言したが、開幕戦に「6番右翼」としてスタメン出場。わずか4打席の差で5年ぶりの規定打席到達は逃したが、大きな怪我もなく1年間を通して1軍に帯同。シーズン打率.239、8本塁打に終わったものの、出塁率は3割5分を越え、満塁の場面では.538、2本塁打、21打点と勝負強さが光った。また、8月17日の広島戦(東京ドーム)で史上37人目となる300本塁打を達成した[32]。クライマックスシリーズは全試合にスタメン出場し、日本シリーズでは、3戦目に阿部慎之助が負傷したため4戦目に4番でスタメン出場した。 この年3月、朝日新聞が入団時の契約金が最高標準額を大幅に超える6億5千万円であったことを報道。巨人側も婉曲的に認めた[33]。 2013年 春のキャンプでは、阿部がWBCに出場したため主将代理を務めた。「6番左翼」で開幕戦を迎え、4月4日の横浜戦でシーズン初安打(2007年以来、自身6年ぶりの三塁打)を放ったが、二塁を回った際に左ふくらはぎを痛め途中交代[34]。肉離れで全治三ヶ月と診断された[35]。6月29日に一軍復帰[36]。7月4日の阪神戦では阿部の代役として4番に座ると、怪我の影響を感じさせない果敢な走塁を見せ決勝のホームを踏んだ[37]。この年は前述の故障の影響で68試合の出場に留まったものの、打率.303、10本塁打、OPS.950を記録。2年ぶりに2桁本塁打を記録し、規定打席不足ながらOPS傑出度は自己最高の数値を記録した[38]。 日本シリーズでは6試合に出場し、第6戦に田中将大から決勝タイムリーを放つなど勝負強さを発揮したものの、打率.150、OPS.427[39]と不調に終わり、チームも日本一を逃した。 2014年 シーズン前半は代打の切り札としてチームを支え、代打での打点は柳田俊郎の球団記録にあと1に迫る17打点を記録した[40]。 夏場からは先発出場が増え、クリーンアップを任される試合もあった。 8月18日、高橋にバッティングの礎を叩き込んだ父が心不全により死去[41]。その告別式の翌日にも試合に出場し、ソロホームランを放った。ベースを周っている途中、天を見上げる仕草が見られた[42]。しかし、8月24日の中日戦でスイングした際に右手中指を脱臼し、25日に登録を抹消され [43]、そのまま復帰できないままシーズンを終える。出場試合数こそ多くないが、前年に引き続き衰えを感じさせない成績を収めた。また、10月25日に選手兼任一軍打撃コーチへの就任が発表された[44]。 2015年 6月11日の日本ハム戦で、NPB史上55人目となる通算3000塁打を達成した[45]。2015年シーズン限りで原辰徳が監督を勇退し、その後任監督への就任要請を受けている[46]。 表記名について[編集] 2000年 - 2009年 入団2年目の1999年まで巨人所属の「高橋」姓の選手は1人だけだったが、同年に高橋尚成が入団したことで表記名が「高橋由」となる。 2010年 2009年オフに高橋尚成がFA権を行使し移籍したため、マスメディアでの表記は11年ぶりに「高橋」に戻ったが、スコアボード表記の「高橋由」と場内アナウンスのフルネーム呼称は継続された[47]。 2011年 - 5月に日本ハムから高橋信二が移籍し、新聞やテレビでの表記も再び「高橋由」に戻った。2011年オフには高橋信二が退団、オリックス・バファローズへ移籍したが、同時期に高橋洸が入団したことで「高橋由」表記は継続された。 選手としての特徴[編集] 打撃[編集] 高橋の打撃フォーム(2006年6月 西武ドームにて) 『天才』と形容されることもある打撃技術の高さと天性のタイミングの取り方を持ち味とし[48]、早打ちで初球から積極的に振りに行くが[49][50][51][52]、右足を高く上げる一本足打法で初球からどんなボールにもフォームを崩さずに対応できる柔軟さを備え[53][54]、多少のボール球でも安打にできる[51]。ファウル打ちの技術にも優れ、外角の球にも強く打球を広角に打ち分けることができる[55][56]。1番打者として起用された2007年には出塁を意識するスタイルとなり、ファーストストライクでのスイング率が前年から15パーセント下がり四球数が増加した[57]。 守備・走塁[編集] 守備では入団以来、主に右翼手としてプレー。チーム事情から2003年と2006年には一時的に中堅手にコンバートされた。また、2010年からは負担の軽減のため一塁手としても起用されるようになった。2012年シーズンは開幕前に左翼手でのレギュラーを狙う方針を打ち出し[58]、夏以降は左翼でのスタメン出場が増えた。外野守備ではフェンスへの衝突を恐れない積極的な守備を見せ[48]、送球面では遠投120メートルの強肩と正確さを兼ね備える[49][59]。一方で、ファインプレーの代償として負傷することが多く、入団2年目の1999年、2005年、2006年、そして2011年と何度もフェンス際での守備で大怪我を負っている。2006年には原監督からダイビングキャッチ禁止を言い渡されている[60]。しかし、高橋は「捕れると思った瞬間には飛びついてしまう。その瞬間の頭は真っ白。ケガのことなんか考えられない」と述べている[61]。 走塁面ではプロ入り当初は50メートル走6.0秒台、一塁到達4.0秒台の俊足を誇っていたが[62][59]、故障を繰り返してからは一塁到達4.3秒台と満足いく走塁ができなくなっている ダントン ジャケット g-star raw メンズ the smock shop ラベンハム レディース ORCIVAL デュベティカ PEUTEREY グローバーオール